42番 中島山実相院 実際寺 

 住職 藤井弘範 

 710-0803 倉敷市中島516 086-465-9014  案内図

 本尊 阿弥陀如来  開基 元和2年 舜海阿闍梨 


二松学舎大学創設者ゆかりの寺 


 JR山陽本線・西阿知駅から南東約一キロ離れた所に中島山実相院実際寺がある。同寺は元和2年(1616)に、当時の中大道城主だった建部民部慰政喜によって開基されている。 

 建部氏は、西阿知の遍照院に身を寄せながら、現在実際寺のある中島地区の干拓などを手掛け元和2年頃に開発を終えている。その年に先祖の聖霊菩提のため、開発した中島に中島山実相院実際寺を建立し舜海阿闍梨が第一世住職となっている。 

 実際寺は、二松学舎大学の創設者である三島中洲翁ゆかりの寺院として知られている。 

 中洲翁は、江戸時代末期に生まれた漢学者。14歳の時、備中松山藩の陽明学者・山田方谷に師事し、その後幕府の最高学府だった昌平黌で学んでいる。明治5年には司法省に入り大審院判事など歴任後、同10年「漢学塾二松学舎」(現在の二松学舎大学)を創設。さらに、東京帝国大学教授、学士院会員になり、東宮侍講として後の大正天皇に漢学などを教授している。大正890歳で永眠した。 

 同寺にある三島家の墓地には、中洲翁が先立った母や兄へといつまでも一緒にいたいとの思いから明治36年に母と兄の墓石の傍らに自分の歯を埋めて建立した「生歯の碑」がある。同碑は、高さ1.3m、幅85B 

 「父也客死 葬在東京 吾百歳後 願侍孤螢 

 歯乎歯乎 亦吾片形 送汝桑梓 永侍母兄」と彫られている。 

 また、同寺にある「節士・三島時政の墓碑」も有名。当時、節士・三島時政は定太郎と称し、中島村の里正・三島縄正の長男で里正見習いをしていた。慶応元年(1865)に幕府が第二次長州征伐を行なった時、倉敷代官・桜井久之助も出陣。時政は留守居役の一人として代官所に残り、慶応2年(186649日、第二奇兵隊の脱走者百余人に代官所が襲撃され、15ヵ所刺され18歳の若さで生涯を終えている。幕末の悲劇として語り伝えられている。 

 ちなみに、実際寺から250m南北に離れたところにある中洲翁の生家跡には、昭和59年に二松学舎大学の「中洲の思想、功績を広く知ってもらいたい。創設者の生誕地として後生に伝えよう」との願いで記念碑が建立されている。 


 ●主な行事 

 1月初大師 3月彼岸会 4月四国霊場巡拝 8月ほとけ送り 9月彼岸会 10月四国霊場巡拝 12月除夜の鐘 毎月23日本尊会、第3日曜写経会、第2,4日曜仏像彫刻会